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最高裁判所第三小法廷 昭和43年(オ)32号 判決

上告人

鈴木尚

右訴訟代理人

成富安信

被上告人

三田村良一

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人成富安信の上告理由第一ないし第七について。

原判決は、上告人がした原判示の二階増築行為が、被上告人の住宅の日照、通風を違法に妨害したとして、不法行為の成立を認め、上告人に対し、これによつて生じた損害の賠償を命じている。

思うに、居宅の日照、通風は、快適で健康な生活に必要な生活利益であり、それが他人の土地の上方空間を横切つてもたらされるものであつても、法的な保護の対象にならないものではなく、加害者が権利の濫用にわたる行為により日照、通風を妨害したような場合には、被害者のために、不法行為に基づく損害賠償の請求を認めるのが相当である。もとより、所論のように、日照、通風の妨害は、従来与えられていた日光や風を妨害者の土地利用の結果さえぎつたという消極的な性質のものであるから、騒音、煤煙、臭気等の放散、流入による積極的な生活妨害とはその性質を異にするものである。しかし、日照、通風の妨害も、土地の利用権者がその利用地に建物を建築してみずから日照、通風を享受する反面において、従来、隣人が享受していた日照、通風をさえぎるものであつて、土地利用権の行使が隣人に生活妨害を与えるという点においては、騒音の放散等と大差がなく、被害者の保護に差異を認める理由はないというべきである。

本件において、原審は、挙示の証拠により、上告人の家屋の二階増築部分が被上告人居住の家屋および庭への日照をいちじるしくさえぎることになつたこと、その程度は、原判示のように、右家屋の居室内および庭面への日照が、季節により若干の変化はあるが、朝夕の一時期を除いては、おおむね遮断される至つたほか、右増築前に比較すると、右家屋への南方からの通風も悪くなつた旨認定したうえ、かように、日中ほとんど日光が居宅に射さなくなつたことは、被上告人の日常万般に種々影響を及ぼしたであろうことは容易に推認することができると判示している。

ところで、南側家屋の建築が北側家屋の日照、通風を妨げた場合は、もとより、それだけでただちに不法行為が成立するものではない。しかし、すべて権利の行使は、その態様ないし結果において、社会観念上妥当と認められる範囲内でのみこれをなすことを要するのであつて、権利者の行為が社会的妥当性を欠き、これによつて生じた損害が、社会生活上一般的に被害者において忍容するを相当とする程度を越えたと認められるときは、その権利の行使は、社会観念上妥当な範囲を逸能したものというべく、いわゆる権利の濫用にわたるものであつて、違法性を帯び、不法行為の責任を生ぜしめるものといわなければならない。

本件においては、原判決によれば、上告人のした本件二階増築行為は、その判示のように建築基準法に違反したのみならず、上告人は、東京都知事から工事施行停止命令や違反建築物の除却命令が発せられたにもかかわらず、これを無視して建築工事を強行し、その結果、少なくとも上告人の過失により、前述のように被上告人の居宅の日照、通風を妨害するに至つたのであり、一方、被上告人としては、上告人の増築が建築基準法の基準内であるかぎりにおいて、かつ、建築主事の確認手続を経ることにより、通常一定範囲の日照、通風を期待することができ、その範囲の日照、通風が被上告人に保障されるわけであつたにかかわらず、上告人の本件二階増築行為により、住宅地域にありながら、日照、通風を大巾に奪われて不快な生活を余儀なくされ、これを回避するため、ついに他に転居するのやむなきに至つたというのである。したがつて、上告人の本件建築基準法違反がただちに被上告人に対し違法なものとなるといえないが、上告人の前示行為は、社会観念上妥当な権利行使としての範囲を逸脱し、権利の濫用として違法性を帯びるに至つたものと解するのが相当である。かくて、上告人は、不法行為の責任を免れず、被上告人に対し、よつて生じた損害を賠償すべき義務があるものといわなければならない。上告人に右損害賠償の義務を認めた原判決は正当であり、論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(関根小郷 田中二郎 下村三郎 天野武一 坂本吉勝)

上告理由

本件は、上告人がその所有家屋に二階を増築した行為により、隣接する被上告人所有家屋の日照及び通風が阻害されたとして提訴された事件であるが、原判決は上告人に不法行為責任の成立を認め損害賠償を命じた。然し乍ら原判決には左記各項に記載の通り、不法行為法規の解釈適用の誤があり、その結果本来責任なき上告人に責任を課した点で、それらの誤はいずれも判決に影響を及ぼすこと明白なる法令違背に相当するから、原判決の破棄を求めるものである。

第一、本件被上告人には、権利乃利益の「侵害」は生じていない。

(一) 原判決は、日照、通風の確保が不可欠の生活利益であるとし、本件では上告人の二階増築により被上告人家屋の日照通風に遮断を生じたが、それは生活利益の違法な侵害であると認定している。

一般論として日照、通風の確保が生活利益の一つであるというのは正しいが、本件で問題となつている日照、通風、即ち上告人の二階増築行為によつて阻害されたという被上告人の日照、通風なるものは、上告人所有地の上を横切つてもたらされ、上告人所有地の上方空間によつて被上告人が享受していた日照であり通風である。上告人は境界をこえて被上告人所有の土地家屋の上方に建築をしたわけではないのであるから、被上告人がその所有地の上方空間によつて享受する日照、通風という生活利益には、上告人の右増築により何らの侵害も影響も生じていないのである。

而して上告人の二階増築までの間、被上告人は右のように自己所有地の上方空間による日照、通風と、他人(上告人)所有地の上方空間による日照、通風との二つを享受していたわけであるが、被上告人にとつてこの二つが同じ生活利益であるということはできない。前者はもとより被上告人の権利であり利益であるが、後者は之と全く異質である。被上告人が後者(他人所有地の上空を介する日照、通風)を享受し得たのは、被上告人が他人(上告人)所有地の上空を利用する権利を有するとかそこを享受する利益を有するがためではなく、単に他人(上告人)が自己の所有地上方の空間を使用せずに放置していたことにより、他人の権利の不行使の反射効として、事実上享受し得たものにすぎない。

現行法上、人は自己の所有地の地上、地下は支配し得るが、他人所有地の地上、地下まで支配、享受することはできない。本件で上告人の二階増築により被上告人が失つたものは、それまで被上告人が自己の権利乃至利益を超過して、本来享受し得べからざる他人の権利の客体を無断、無権限で利用、享受していた利益である。この意味で、他人所有地上空を介しての日照、通風を利益というも、本来法律上利益の名に値しない消極的な利益にすぎず、あたかも凹レンズが写し出す虚像にも等しいものである。

上告人の二階増築行為により被上告人が失つた日照、通風はこのように本来被上告人に帰属していない虚なる利益の喪失であり、虚が空に帰したのみで、実が奪われたものではない。そこに何らの「侵害」も存在しないのである。かかる場合に対して原判決が、不法行為の要件の一たる権利乃至利益の侵害の存在を認めたのは明かに誤である。

(二) 外国の立法例に徴するも、ドイツ、スイス等大陸法系諸国における所謂イムミツションの法理にせよ、英米法系諸国における所謂プライベート・ニューサンスの法理にせよ、騒音、振動、悪臭、煤煙、汚水等の不可量物による積極的侵害に関しては法的保護の対象としながら、他人所有地を横切つての日照、通風の阻害に関しては、消極的侵害として之を原則として法的保護の対象外に置いているのも、上記の理によるものと考えられるのである。原判決の如く、かかるものを自己所有地上空による日照、通風や積極的侵害と安易に同視することは、到底許されないところである。

(三) 尤も原判決は、それら立法例をこえて、他人所有地を横切つての日照、通風の享受にも法的保護を与えるべきであるという見解を持つたものであるかもしれないが、そのような見解は立法論としてはともかく解釈論としては現行法の枠をこえるものである。法的保護の必要があることと、現在法律上保護が与えられていることとは、勿論同じではない。原判決は法的保護の必要即法的保護の存在という論理の飛躍を犯しているといわなければならない。

第二、本件上告人の増築には、不法行為の要件たる行為の違法性を欠いている。

(一) 原判決は上告人について、著しい建築基準法違反ありとし、かかる著しい基準法違反の建築を敢えてしたことは同人の所有権行使が甚しく社会的妥当性を欠くものであるとし、被上告人は上告人のきわめて悪質な違反建築により日照、通風の阻害をうけているので、かかる日照通風の妨害は賠償責任を生ぜしめるに十分な違法性を備えるに至つたと認定している。

本件の如き不法行為事件にあつては行為の違法性が成立要件の一つであり、原判決は右のように上告人の建築基準法違反の点に行為の違法性を見出しているのである。

(尤も原判決は一方では、建築基準法特に本件関係法条が、相隣者間の日照、通風に関する利害調整を目的とした規定でなく、上告人の増築が違反建築であつたことだけから、直ちに不法行為責任を認めるに十分な違法性を具備するものとはいえないといつているが、続いて「同法が日照、通風に間接的にかかわりをもつていることも否定し難い」とし、「しかして被控訴人鈴木がかかる著しい建築基準法違反の建築をあえてしたということは、同人の所有権行使が甚しく社会的妥当性を欠いていることを示すものと評価できる」といい結局、社会的妥当性なる慨念を介在せしめることにより、建築基準法違反―(社会的妥当性欠除)―違法性という結びつきを成立させているのであつて、原判決中上告人の行為に建築基準法違反以外何一つの非違の指摘がないことと併せ考えれば、前記の通り建築基準法違反の点に行為の違法性を見出していると見る他はない)

ところで不法行為は私法上の違法行為であるから、その成立要件たる行為の違法性も亦私法上の違法性(倫理的非難可能性)でなければならない。実質的に考えても、私法上の違法性には客観的に絶対性のある基準の存することが必要であり、便宜的、浮動的基準であつてはならず、単なる形式的規定への違反の如きものでは足らないのは当然である。

それに対し建築基準法は、都市における宅地利用を規制する目的をもつた行政的取締法規にすぎず(この点は原判決も認めている。九丁裏)、そこに定められた各種の基準(例えば建ぺい率)にしても、専ら行政取締上の便宜によつて定められた相対的なものであつて、それら基準には少しも倫理的必然性はないのである。(例えば或地区における建ぺい率が四割と定められている割合、その地区の建ぺい率が三割であつても五割であつてもならず四割でなければならないという倫理的必然性は見当らない。そしてひとたび建ぺい率が変更されるや、昨日までの基準法違反建築も今日は合法建築と化するのである。)従つてかかる法規に対する違反も亦単に形式的違反(形式的違法)たるに止り、実質的違法性は存しないのであるから、建築基準法違反の違法を採つて以て私法上の不法行為の要件たる違法性に該当するものとなすのは誤りである。若し原判決の如く、建築基準法違反即反社会性(社会的妥当性の欠除)と見るとしても、その場合の反社会性(社会的妥当性欠除)なる語は形式的、行政取締上の意味に限局された反社会性を意味するにすぎず、之を倫理的な反社会性と混同することは許されない。かくして反社会性の語に置きかえたところで、之を以て不法行為の違法性とすることはできない。(さもないと、原判決の如き行政取締法違反―反社会性―違法性という論理によつて、行政取締法違反はすべて私法上の不法行為となるという悖理を許すことになろう。)

(二) もともと権利乃至利益に対する或侵害行為が私法上の違法性をもつとされた場合に、その侵害行為について行政取締上の許認可の存在(行政取締上の適法性の裏付)も、何ら私法上違法阻却事由となるものではないとされている。つまり、たとえそれが存在しても私法上適法性を保障するに足りないという事は、裏を返せばそれが存在しないからといつて直ちに私法上の違法性を生ずることにはならないのであり、いずれにせよ行政取締上の適法違法は、私法上の適法違法と無関係である筈である。

(三) この点の解釈の参考になるものとして、ドイツ民法の例をとると、ドイツ民法の不法行為に関する規定中には第八二三条第二項に於て、法律の規定に違反した行為につき不法行為が成立するものと定められている。然しこの法条も「他人の保護を目的とする法律に違反した」(gegen ein den Schutz eines anderen bezweckendens Gesetz verst〓sst)(外国法典叢書独乙民法2七八九頁)行為を対象としているのである。即ちこの場合でも、あくまで私人の利益保護を目的とした法令の違反に限られるのであり、単なる行政取締規定の違反が、即、私法上の不法行為とされるものではない。

我建築基準法に関しても、面積が狭あいな土地で同法所定の建ぺい率の制約をうけるため、同法に違反することなしには建物の建築が不可能な土地に対しても、私法上は借地権の成立を肯認した最高裁判所昭和三一年七月一七日判決(最民集一〇巻八七四頁)も、間接的にではあるが右と同様の趣旨に立つものと思われる。

第三、原判決は、法律上何ら違法性なき行為によつて上告人の行為の違法性を認定している。

(一) 原判決は、上告人の行為の違法性を認定するに当り、上告人の加害行為の態様。地域の場所的性質、被害の程度、被上告人の損害回避の可能性の各事由を掲げ、之らを綜合判断しているが、その中でも第一に掲げた加害行為の態様を最も重視していることは判決文より明白に看取できる。加害行為の態様について原判決の認定は、建ぺい率違反、家屋の境界線からの距離違反、無届建築の三点を指摘し、上告人に三点の著しい基準法違反の事実の存することが本件で極めて特徴的であると強調している。

然し乍ら、そのうち家屋の境界線からの距離違反は、本件増改築以前から存在していたものであって、増築によつて少しも変化を生じていないのみならず、実は上告人が本件家星を取得するとき既にその状態であつたものであったものである。(原判決もその通り認定している。尚原審検証調書添付の見取図にある通り、同じ建売業者から同じ頃取得した被上告人家屋の方が一層この点の建築基準法違反は顕著である。むしろ被上告人との関係では、この点を上告人の違法性に数え上げること自体誤である。)にもかかわらず原判決は上記三点について上告人が「かかる著しい建築基準法違反の建築をあえてした」点が違法であるとしているのは、明白な誤である。

(二) 又建ぺい率違反及び無届建築の点につき上告人は、増築に当り工事請負業者に、建築確認申請手続及び隣接空地の買取若しくは賃借の為の地主との交渉手続を一切任せていたところ、業者に於て実施を怠つたため心ならずも基準法違反の結果を招いたのであるが、原判決はこの点について「かりにそれが事実であつたとしても、せいぜい右違反が計画的な所為ではなかつたことを示すにとどまり、その行為自体が正当化されるものではない」との判断を示している、

然し乍ら、右事実の存在の下では、単に計画的な所為でなかつたばかりでなく、残るのは取締法規の形式的な違法行為にすぎず、そのに隣人への不法行為としての違法性が存在する由もない筈である。

(三) 場所的性質の点でも原判決は、住宅地か否か特に基準法による地域指定を重視しているが、同程度の基準法違反でも密集地、都心では適法化されるとか、住宅地では逆になるという理はなく、政策論としては格別、違法性の判断基準とするには当らない。現実には、都心では土地の需要が大であり地価が高いため、人は広大な土地の保有が困難となり、勢い狭あいな土地に住むことがそれらの人に日照、通風の恵まれない原因である。たとえ都心部と雖も充分の広さの土地を保有する者は、敷地に応じた充分の日照、通風を享受し得べきであり、都心部である故を以て敷地に応じた日照、通風の享受が妨げられるべきいかなる理由も現行法上考えられない。(英法上のプライベート・ニューサンスに於いて、例外的に認められている二〇年間の時効取得に基く採光権に関しても、採光量の決定につき、地域性、近隣の性格は顧慮されないといわれている。植林弘、ジュリスト三二六号七五頁)

(四) 被害の程度の点でも原判決は、具体的な実害を認定せず、ただ「日常万般に種々深刻な影響を及ぼしたであろうことは容易に推認することができる」としている。原判決は被上告人の被害法益に関しても「一種の人格権」とするのみで、その法的性格を明示していないが、被害の程度に関しても右のように抽象的な推認をするのみである。然し前掲英法のプライベート・ニューサンスにおける採光権の例でも、採光の如き消極的侵害にあつては(たとえそれが例外的の保護法益とされる場合ですら)積極的侵害の場合と異り実害の証明など厳格に要求されるといわれている(好美清光、時の法令三五四号三七頁)。

右の如き抽象的推認を以て違法性認定の資料とした点も誤である。

要するに之らの綜合により原判決が上告人の行為の違法性を認定したのは、法律上違法性なきところに違法性を認定した誤を犯すものといわなければならない。

(五) そもそも本件は、被上告人が上告人の二階の増築行為によつて日照、通風を奪われたとして提訴した事件であるから、上告人の行為の違法性を判断するに当つても、当然右二階増築行為に関しての違法性の有無を判断すべく且それ以外の行為に関する違法性の判断をすべきではないのは当然である。然るに原判決が、二階増築と直接何の関係もない行為までも綜合して違法性の認定を行なつた点で、既に出発点から誤つていたものである。

第四、原判決の違法性の認定には審理不尽がある。

原判決が加害行為の態様、場所的性質、被害の程度、損害回避可能性の各事由を以て、上告人の行為の違法性を認定していることは、前項に掲げた通りである。そこで仮に原判決が列挙した如き事由を以て、上告人の行為の違法性を認定することが許されるとしても、それら各事由に関する具体的な内容、事実関係について、原判決は審理不尽である。即ち、

1 加害行為の態様に関して、特に建ぺい率違反及び無届建築の点につき、上告人は請負業者に、建築確認申請手続及び隣接空地の買取若しくは賃借の為の地主との交渉手続一切を任せていたが、業者の怠慢により基準法違反の結果を招いたものである。原判決は、その事実があつたとしても行為自体を正当化しないと即断して右事実に関する審理を行なつていないが、右事実の有無が上告人の増築行為の違法性を左右する影響あるは明かであつて、違法性を判断する為には当然右事実の審理がなさなければならない。

2 原判決は、増築に対し行政庁から中止命令及び除去命令が発せられていたにも拘らず、上告人は「右命令を一切無視して工事を強行した」もので、そこに反社会性を見出せるとしている。然し乍ら若し之ら行政庁の命令への違反を違法性認定の資料とするのであれば、本件増築に対し右命令がいかなる事情で発せられたか(一般にいかなる基準で発せられるか、本件の場合基準のいかなる点に該当するとして発せられたか)が審理されなければならない。のみならず、本件で右命令が発せられたのは、実際には増築工事の大半が終了した後のことである(その後は請負業者が逃走したため未完成状態のまま、形だけを整えた)が、いづれにせよ右命令の発せられた当時の増築工事の具体的進捗程度(原判決は之を認定していない)の認定なくしては、之を違法性の判断資料となし得ず、いわんや「命令を無視して工事を強行した」と認めることは到底できないところである。

3 被害の程度に関しても、原判決には具体的損害の認定はなく、単に「日常万般に種々深刻な影響を及ぼしたであろう」との推認がなされていること前掲の通りであるが、被害の程度が違法性認定の資料たりうることを肯定する限り、違法性の有無を判断する為には被害の内容、程度の具体的な審理がなされなければならない。

4 場所的性質についても、之を違法性の判断の一資料とする為には、ひとり上告人及び被上告人家屋の状況に止まらず、近隣の建築状況、特に基準法違反の状況をつぶさに審理せられなければならない。原審検証調書添付図面の通り、被上告人家屋すら既に建ぺい率違反であると共に境界線との距離も違反であつて、現実には原判決の見解と反対に住宅地域にこそ建築基準法違反が頻発しているのである。

第五、原判決は上告人に不法行為の成立を認定するに際し、受忍限度論を以て違法性を判断しているが、之は誤である。

(一) 原判決も、上告人の行為による被上告人の生活利益の侵害なるものに関し、不法行為責任を問うているが、一般に不法行為責任を問わんとするに当つては、要件の一つとして違法な侵害の存在が必要である。即ち本件の場合に置きかえていえば、上告人の故意、過失ある行為により、被上告人の権利乃至利益を違法に侵害した事を要する。とりわけ本件は、上告人の行為が自己の所有地における増築という権利行使の外形をもつだけに、それを違法なりといかにして把え得るかが問題となるところである。

その点に関し原判決は、「妨害者の所有権行使の結果生じた近隣に対する日照、通風の阻害が、被害者において社会通念上一般に受忍すべき限度をこえるに至つたと認められるときは、もはやその被害者に対しては、これが社会的に許容された適正な権利行使であることを主張しえず、違法な生活妨害として不法行為を構成すると解すべきである」とし、受忍限度の判定に当つては判示の諸事情を広く比較検討して決すべきであるといつて、所謂受忍限度論を採つている。

このように不法行為の違法性を、社会生活上の受認の限度によつて決定するという見解(受忍限度論)は、違法性が被害利益と侵害行為との相関々係に於て判断せらるべきであるとする所謂相関々係説の導入によるものであるが、かかる見解は少なくとも現行法上の不法行為に関する解釈論としては到底肯認されないものである。

何となれば受認限度論をとるときは、不法行為の成立要件の多くのものと矛盾を生ずるのである。即ち、①次項に詳記するように、因果関係の存在しないところに不法行為の成立を認める結果となることもその一つであるが、②結果責任を認めるに等しいことになり、現行法上の責任要件に反し、③行為者に於て適法行為であつても相手方その他行為者の外部事情の如何により違法性を生ずるという悖理に到達する等がそれである。更に受忍限度という基準一つで法的保護をはかるならば、不法行為成立の余地は無制限に広がるおそれがあり、社会生活の法的安定を害すること多大である。

(二) 受忍限度論は、行為の違法性を相手方(被侵害者)の受忍すべき限度如何によつて決定せんとするため、社会生活上一般的に受忍すべきものと考えられる程度以上の損害が惹起されることは、既にそれ自体で違法性があると解することになり、かくては行為者(権利行使者)に一種の結果責任を認めるに他ならないのであるが、かかる構成は現行不法行為法の認めないところである。

(三) 又今日では、往昔の如き権利を行なう者は悪をなさずの法諺が妥当する時代ではないにしても、少なくとも権利行使は一応適法性が推定され、それにより他者の権利乃至利益に何らかの影響を及ぼすことがあつても、単にそのように影響を与えただけの事由では、権利行使が違法性を帯びたり不法行為とされることはないのである(地下水湯の汲上に関するものではあるが、大審院明治三八年一二月二〇日判決、民録一七〇二頁、同昭和四年六月一日判決、評論一八巻民法九五一頁。建築工事に関し下級裁判所ではあるが、東京高等裁判所昭和三五年五月二七日決定、同年(ラ)第三三〇号ジュリスト二二七号五〇―五一頁)。土地所有者が地上に建築、増築をなす行為も、特に私法上禁止、利約を規定する法令乃至慣習法がない限り一般に土地所有者の権利に属し、その権利行使により隣地の他人の生活に影響が及んでも当然には違法とされない。ただ特にその権利行使が濫用にわたる場合のみ、権利行使としての効果を失い、しかもその行為が同時に他人に対する関係上倫理法違反になる時は違法性を帯び、不法行為となりうるのである。しかも権利濫用となるか否かについては専ら権利行使者側の事情――所有地上の家屋建築であれば主として権利行使の意図(加害意思の有無)、権利行使の目的(不必要な行為か否か)、権利行使の方法態様(異常であるか否か)等によつて決定せられる。

然るに受忍限度論によるときは、濫用にも至らぬ適法な権利行使までも、相手方の事情など外部要因に基いて違法とする場合が起りうる。(原判決が、上告人家屋に建ぺい率違反が解消し得たと仮定しても尚、権利行使として許容されないもののようにいつている点(傍論ではあるが)に徴しても、受認限度論が適法行為までも違法とする危険を包蔵するものであることを示している。)このように受認限度か否かをまず考えるのは正しくなく、まず権利行使として私法上濫用にわたるか否かを考え、もし濫用にわたらない限り、もはや相手方の受忍限度如何を問うまでもないこととなるべきである。

(四) 本件上告人の増築は、(行政取締上法規に対する形式的違反はあるにせよ、)増築の意図に於て隣家を困らす害意もなく、目的に於ても家族増加による居宅拡張の切実な必要があつたのであり、形状構造に於ても極めて常識的、平凡なものであつて、私法上権利行使として適法の範囲内で濫用性など全く無いのである。それにもかかわらず原判決は受忍限度論を採つたために、このように私法上適法な権利行使を不法行為と認定する誤を犯している。

第六、上告人の増築行為の違法性と、被上告人の日照、通風阻害との間には、因果関係を欠き不法行為成立の由なきものである。

(一) 原判決が、被上告人の日照、通風の阻害を招いたとして非難している上告人の行為は、建ぺい率違反、境界線との距離の違反、無届建築という三点の建築基準法違反であり、之が違法な侵害であると目されていることは屡述したところである。

尤も原判決は、基準法違反を即不法行為責任とするものではなく。社会的妥当性、受忍限度如何を判断する重要ではあるが一つの資料にしたにすぎないというが、基準法違反を除くと原判示のどこにも、他に上告人の行為を違法とするに足る事由が掲げられていないのであるから、反社会性、受忍限度の観念の介在はあるにせよ、基準法違反が違法性認定の中核をなしていることは明かであるといわねばならない。

(二) ところで建ぺい率なるものは建物の面積と敷地面積との比率、換言すれば家の広さと土地の広さとの比率の問題である。従つて建ぺい率の上で対象となるのは専ら家の「広さ」であつて、「高さ」或は敷地内での位置には関係がない。それに対し被上告人が日照、通風の阻害を生じたというのは「広さ」に関係なく専ら上告人家屋の「高さ」(二階増築)によるというのである。然し上告人家屋は「高さ」に関する限り、建築基準法にすらも違反はなく、この面では行政取締上すらも適法とされているのである。基準法違反(建ぺい率)が問題とされているのは、被上告人の日照、通風と関係ない「広さ」の点である。既にこれだけでも建ぺい率違反の違法と、日照、通風阻害と、因果関係のないことは明らかである。

のみならず、建ぺい率の本質を更に掘り下げて考えると、建ぺい率が問題とする家の「広さ」は、決して絶対値としてのそれではなく、敷地面積との比較における相対的な広さである。従つて全く同じ建ぺい率(例、四割)の地区にある同面積(例、三〇坪)の家でも、敷地面積の広狭次第で或ときは(例、土地五〇坪)違反となり、他のときは(例、土地百坪)適法となるのである。即ち建ぺい率違反か否かを決するものは、広さとはいつても家の広さよりも寧ろ敷地の広さに他ならないのである。

之を本件でいえば、上告人の増築が建ぺい率違反となるのは、家屋の絶対値としての面積が大きすぎるが為ではなく(基準法上特に家の絶対値としての面積の制約はない)、土地が狭いためである。従つて上告人所有地が十坪広ければ(又は買取乃至賃借により広くしたならば)、建ぺい率違反の違法は、家屋の広さに少しの変りもないにもかかわらず、たちまち解消してしまうのである。上告人が尚数十坪の土地を保有していないということが、いかにして被上告人の日照、通風と因果関係をもち得るのであろうか。

このように建ぺい率は土地と家との広さの比率であるからこの違反が解消する事由としては、家の広さを縮少するのみに止らず、右のように家の広さをそのままにして土地の広さを拡大することによつても可能であり、又建ぺい率が緩和されることによつても可能である(最近建ぺい率はとみに緩和の傾向にある)。敷地の拡大又は建ぺい率緩和によつて違反が適法化しても、家屋の外形には変化を生じないから、隣地への日照、通風には何も影響が及ばない。この点も両者間に因果関係のないことを裏付けるものである。

更に増築後の家屋と同坪数でも、平屋建としたり、各階の高さを極端に低くしたり、又は土地の南端に接して建てたりすれば、その場合でも建ぺい率違反の違法に変りはないが、被上告人側の日照、通風の阻害は解消するであろう。反対に、上告人家屋が本件敷地の建ぺい率に適合した広さの小家屋であつたとしても、現在の位置と高さと巾(東西)で単に奥行(南北)だけが二分の一の家であるとか、平家にしても地盛り若くは床下を高く挙げ、高いアトリエ風の吹抜天井をもつた家であるときは、適法建築にも拘らず被上告人側の日照、通風の阻害は解消しないであろう。

そもそも上告人家屋は、第一次増築はもとより、当初の買受時から既に建ぺい率違反が存したのであるが(検証調書の通り、同時に同所から買受けた被上告人家屋も当初から建ぺい率違反である)、買受当初も浴室台所の第一次増築後も、被上告人の日照、通風は少しも阻害していないのである(原判決も認める)。

要するに上告人家屋の建ぺい率違反は、いかなる点よりするも被上告人の日照、通風の阻害と因果関係をもつものではないから、このような点に違法性をとらえても不法行為が成立することはありえない。(「違反建築により……日照通風を奪われた」ということは無い。)

(三) 境界線との距離の違反及び無届建築の点に至つては尚更無関係である。境界線との距離の違反も、買受時から既に存在し、二階増築によつてもこの点に関しては何の変化も無いのであつて、増築以前にこの距離の関係が何ら日照、通風の阻害をひきおこしていない以上、増築後に之が阻害を生じ得べくも無い。又無届建築の点も、建築確認の有無は行政取締上の手続の問題にすぎない上に、建ぺい率に関して上記したところと同様の理由により(基準法上適法で建築確認を得ても本件と同じ日照、通風の阻害が生じうるし、基準法上違法で建築確認を得られなくても日照、通風の阻害を生じない場合もありうる)、この点も亦日照、通風と無関係の問題である。被上告人も、上告人の二階増築による高さの変化に対して、日照、通風の阻害を生じたものと主張しているにすぎず、境界線との距離、無届建築の点は、上告人の増築行為に基準法違反のあることを非難しているにすぎない。そのように日照、通風の阻害と関係あるのは家屋の「高さ」の増加であるのに、建ぺい率をはじめとして境界線との距離、建築確認の如き点の違反までとり上げて違法性を論ずるのは、あまりにも因果関係を無視した論議である。

原判決は、建物が基準法の基準内であり所定手続を経ることにより、隣人は通常一定範囲の日照、通風を期待できるとするが、この期待は文字通り主観的、消極的な期待にすぎず、この期待に基づいて何らか法律上の請求をなしうる権利乃至利益(期待権)ではなく、そのような「期待」あることをもとに違法性と関係づけることは許されない。

(四) 原判決は違法性に関連して、上告人が行政庁の発した中止命令、除去命令に服さなかつた点をも指摘している。然しこの命令も、上告人の増築により家屋の一部分が建築基準法違反であるから、違反を解消することを命じているのであつて、基準法上の問題に止まり之を私法上の違法性と結びつけるのは誤である。原判決も偶々右命令が存するのでそのようにいうが、日照、通風の阻害は此命令によつて生じたものでもないし、又命令遵守の方法としては前記の通り土地の拡大もありうるのであり、命令が遵守されたからといつて日照、通風の阻害が解消するものでもない。之亦違法性と因果関係なき問題である。

第七、結び

要するに本件は行政取締上は格別、私法上は侵害も、行為の違法性も、又因果関係も無く、現行法の解釈上到底不法行為が成立しうべくもない事案である。

社会事象は刻々変化するが、実定法が社会の変遷に常時即応して改変されてゆくことはありえず、常に社会の変化に遅れるから、法規と社会事象との間に大なり小なり間隙を生じうるのは不可避の事態である。そうした法の欠缺部分につき、真に法的保障が必要となるに至れば、立法改正により欠缺が補填せられるべきである。然し立法改正もなされない間に、法の欠缺部分をも強いて現行法の拡大解釈により補わんとすることは、徒らに法的安定を害しやすく、望ましくないことである。一般に社会的非難を浴びる行為であつても、常にそのすべてが法規で規制されているとは限らず、道義上の問題に止るものも多々ある。社会的非難即法律違反とは限らないし、それらのすべてを或は法的保護が必要と思われるすべての事象を、現行法の解釈によつてカバーし尽すことは到底なしうることではない。立法と司法の限界は守られるべきである。

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